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奇跡的な話 1988年 イタリアGP [モータースポーツ]

1988年のF1はターボエンジンの使用が認められる最後のシーズン。結果、ホンダ・マルボロ・マクラーレンが、アラン・プロストとアイルトン・セナを擁して全16戦中15勝してしまうシーズンである。

この年、ターボエンジンは過給圧2.5バール(前年4バール)、総使用燃料150㍑(前年195㍑)に制限されていた。これは燃料の使用に制限のないノンターボ勢との格差を埋めるための措置だったが、パワー、燃費ともに優れるホンダエンジンの敵ではなかった。

しかし、ホンダが、マクラーレンが、勝てなかったレースがあった。それがこのイタリアGP。そのウイナーはフェラーリだった。フェラーリは燃費でホンダに太刀打ちできず、ノンターボ勢ににも喰われる劣勢ぶりだったが、時折ホンダに迫る速さを見せ付けていた。シーズンも後半戦の第12戦。オートドロモ・ナツィオナーレ・ディ・モンツァでのグランプリはフェラーリの創始者エンツォ・フェラーリの追悼レースでもあった。

予選から、ホンダ、マクラーレンの速さは際立ち、レースもマクラーレンのふたりがリードしていく。フェラーリは燃費を気にしつつマクラーレンを追う。ホンダはマクラーレンのほかにイギリスの名門チーム、ロータスにもエンジンを供給していた。ネルソン・ピケがコースアウトでリタイアした後、同じくロータスの中嶋悟はエンジントラブルでピットにいた。しばらくして、プロストも中嶋と同じ症状を抱え、レースを終える。残ったセナは順調そのものだったが、ドラマは残り2周で起きた。周回遅れと接触したセナは、シケイン特有の高い縁石に亀の子となり、コースへ復帰できなくなったのだ。

エンツォ逝去後の地元GPで、10年ぶりの母国1-2を決めたフェラーリ。スタンドにいたイタリア人が、テレビを見ていたイタリア人が発狂しただろう。2005年の今、フェラーリがモンツァで1-2を決めるシーンは当たり前すぎる光景となりつつあるが(今年はどうか?)、フェラーリ長い低迷を続けていた時代にはこんな感動的なフェラーリの1-2フィニッシュがあったりしたものだ。

付け加えれば、この1-2の立役者は、エンツォが選んだ最後のマネージャー、マルコ・ピッチニーニとエンツォが最後に選んだイタリア人ドライバー、ミケーレ・アルボレート(2位)とエンツォが最後に選んだドライバー、ゲルハルト・ベルガー(優勝)だった。


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コメント 1

RYO(報道局長)

わけあってTNNのBlogを閉店することになりました・・・・

っていうよりもー Movable Type導入してサーバー移転しました(^^;)
これからもよろしくお願いします。
#WEBのTOP画像も替えましたー
http://takumasato.pro.nu/
http://ryo1972.web.infoseek.co.jp/blog/
by RYO(報道局長) (2005-06-05 05:55) 

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