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1995 イギリスGP [モータースポーツ]

サッカーワールドカップの影響を受けてイギリスGPを見たら、なんとなく思い出したグランプリ。

ルノーエンジン最強期にあり、ミハエル・シューマッハ期序盤。
ウイリアムズとリジェが使っていたルノーエンジンを、リジェを自らのチームにすることで奪い取ったトム・ウォーキンショーとフラビオ・ブリアトーレ。それが、シューマッハを繫ぎとめる理由だったことは明白。1994年はフォードHBV8でチャンピオン獲得のベネトンもルノーエンジンを積めばもっと楽になることも当然わかっていること。

1995年シーズン、アイルトン・セナの壮絶な死の記憶がまだ生々しいシーズンは、ウイリアムズ・ルノーとベネトン・ルノーの2強とそれを追従するフェラーリとこの年から新たなコンビネーションとなったマクラーレン・メルセデスが追う展開。
しかしながら、デーモン・ヒル・とシューマッハのTOP2対決が主たる優勝争いを繰り広げていた。

迎えた第8戦、イギリスGPシルバーストン。
ちなみにこのGPのイギリス人ドライバーは、ヒル、デビッド・クルサード(ウイリアムズ)、ジョニー・ハーバート(ベネトン)、マーティン・ブランドル(リジェ)、マーク・ブランデル(マクラーレン)と北アイルランド人のエディー・アーバイン(ジョーダン)。

シューマッハ有利で進んできたこれまでのレースとは違い、地元イギリスで俄然速さを増したヒルが食い下がる。46周目、やや強引なヒルの突っ込みにシューマッハも譲らずに両者グラベルの中へ消える。

ここで、首位争いは二人のセカンドドライバーにゆだねられる。
セナの死以降に急遽テストドライバーから昇格し、ナイジェル・マンセルとのシート争いに勝利したクルサード、
1989年のF1ステップアップ決定後にf3000で両足骨折の大怪我を負い、その影響でベネトンF1チームを一度は全日本F3000まで追いやられながら、ロータスで見事復活しチャンピオンチームになった古巣に復帰したハーバート。

どちらが勝っても初優勝、テール・トゥ・ノーズの戦いは、クルサードに10秒ピットストップペナルティが科されることで終止符が打たれた。
比較的地味なレースでありながら、F1関係者やファンに嫌いな人がいないのではないかと思われるほどのハーバートが、F1で勝利するのを見るのは実に感動的なシーンだった。
クルサードは後半戦のポルトガルGPで初優勝。1995年シーズンの中で、シューマッハをコース上でパスした唯一の勝利として賞賛された。
ハーバートはイタリアGPでも優勝。歴史ある2大GPを制した。

<ジョニー・ハーバート>
1989年にベネトンからF1デビューを決めた後、F3000レースで大怪我を負う。怪我は完治しないまま、F1で期待されたような結果が出なかったため、F1浪人生活を強いられる。
1991年、低迷期のロータスでレギュラードライバとして復活。同年マツダ787Bでル・マン史上唯一の日本車勝利に貢献する(自身にとっても唯一の優勝)。
1994年、ベネトンに契約を買い取られる形で、リジェ→ベネトンへ復帰し、1995シーズンを闘う。
その力量から、自分を脅かすのではないかと思ったシューマッハが、シリーズ2戦目にしてロガーデータをはじめとしたデータを全く見せなくなった話は有名。これを不満に思い、ベネトンを離脱。
以後、ザウバー、スチュワート(→ジャガー)と渡り歩き、2000年を最後にF1から去る。1999年にはスチュワートでチーム唯一の優勝を飾っている(ルクセンブルグGP・ニュルブルクリンク)
通算3勝。


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